M&Aで買い手が押さえるべき人事労務の留意点|未払残業代・制度統合・リテンションの実務

M&Aにおける人事労務リスク

M&Aによる事業拡大を検討するとき、財務デューデリジェンスと法務デューデリジェンスは当然のように手配するのに、人事労務の調査だけは「規模が小さいから」「弁護士に頼むほどでもないから」と後回しになりがちです。しかし買収後にトラブルとして噴き出すのは、決算書に載っていた数字ではなく、決算書に載っていなかった「ヒト」に関する債務とリスクであることが少なくありません。「未払残業代が数千万円単位で出てきた」「就業規則が存在せず、統合しようにも基準点がなかった」「クロージング直後に技術者が辞め、事業そのものが回らなくなった」——こうした事例は、決して例外的なものではないのです。

本記事では、買い手の視点からM&Aにおける人事労務の留意点を、①簿外債務、②人事制度の未整備、③従業員のリテンションという3つの層に分けて整理します。単なるリスクの列挙にとどまらず、未払残業代の概算試算の方法、発見したリスクを譲渡価格と契約条項にどう落とし込むか、そしてクロージング後100日で何をすべきかまで、実務の手順としてお読みいただける内容にまとめました。

目次
目次

1. M&Aで「人事労務」が買い手の最大リスクになる理由

人事労務リスクは「簿外債務」「制度未整備」「人材流出」の3層で捉える

M&Aにおける人事労務リスクを漏れなく検討するには、性質の異なる3つの層に切り分けて考えることが有効です。

  • 第一の層は、未払残業代や社会保険料の遡及徴収のように、金額に換算できる簿外債務・偶発債務です。これは譲渡価格から控除すべき性質のものであり、放置すればクロージング後に買い手の現金が流出します。
  • 第二の層は、就業規則や賃金制度が整備されていないことに起因するPMI(Post Merger Integration=M&A成立後の統合プロセス)コストです。こちらは一過性の債務ではなく、是正のために将来にわたって発生する人件費や管理コストの増加として、将来の損益計算書に乗ってきます。
  • 第三の層は、キーパーソンの退職や従業員の大量離職によって事業価値そのものが毀損するリスクです。これは金額に換算しづらい一方で、最も回復が困難な損失につながります。

この3層を混同したまま「労務リスクがありそうだ」と漠然と捉えていると、対処の手段を誤ります。第一の層は価格交渉と契約条項で処理すべきものであり、第二の層は事業計画とバリュエーションの前提に織り込むべきもの、第三の層は契約以前にコミュニケーション設計とインセンティブ設計で防ぐべきものです。買い手として最初にすべきことは、対象会社に潜む人事労務上の論点を洗い出し、それぞれがどの層に属するのかを仕分けることだといえます。

リスクの性質典型例主な対処手段
①簿外債務・偶発債務過去に発生済みで、将来請求され得る金銭債務未払残業代、社会保険料の遡及徴収、退職給付債務の未計上、係属中の労働紛争譲渡価格からの減額、表明保証・特別補償、エスクロー
②制度未整備によるPMIコスト将来にわたり継続的に発生するコスト増就業規則の不備、賃金・評価制度の不在、労務適正化に伴う人件費増正常収益力(EBITDA)の調整、事業計画への織り込み、PMI予算の確保
③人材流出による事業価値毀損収益基盤そのものの喪失キーパーソンの退職、有資格者の離職による許認可の喪失、大量離職リテンション施策、キーマン条項、開示タイミングの設計、PMIでの信頼構築

財務DD・法務DDのスコープからこぼれ落ちる領域

人事労務の論点は、財務デューデリジェンスと法務デューデリジェンスの「あいだ」に落ちやすい性質を持っています。財務デューデリジェンスは会計帳簿と証憑を出発点とするため、そもそも帳簿に計上されていない未払残業代は検出されにくく、検出できたとしても「未払賃金が存在する可能性がある」という定性的な指摘にとどまることが少なくありません。法務デューデリジェンスは契約書と法令適合性を中心に見るため、就業規則や労使協定の形式的な整備状況は確認できても、タイムカードと実際の労働時間の乖離といった運用実態にまでは踏み込まないのが通例です。

つまり、未払残業代のように「法令適合性の問題であり、かつ金額の定量化が必要」な論点は、労働法制と賃金計算実務の両方に精通した専門家でなければ拾いきれません。だからこそ、労働法に強い弁護士を含めた人事労務デューデリジェンスを、財務・法務とは別建てのスコープとして設計する必要があるのです。加えて、組織風土や離職率、キーパーソンの意向といった定性情報は、資料の閲覧だけでは把握できず、マネジメントインタビューを通じてしか得られません。この調査設計を怠ると、価格交渉の材料もPMIの設計図も手に入らないまま、クロージングを迎えることになります。

ポイント
人事労務の調査は「労務DD」と「人事DD」に分けて設計すると抜け漏れが減ります。労務DDは過去から現在までの労務コンプライアンス遵守状況を確認し、買い手に移転する潜在債務を金額として洗い出す調査です。人事DDは現在から将来に向けて、組織風土・人員構成・人件費・人事制度のギャップなど、PMIと人事マネジメントに必要な情報を収集する調査です。前者は価格交渉のため、後者は統合計画のために実施するもので、目的も成果物も異なります。

中小企業のM&Aで労務リスクが顕在化しやすい構造的な背景

中小企業を対象とするM&Aでは、労務リスクが大企業案件よりも高い確率で、かつ大きな金額で顕在化します。理由は構造的なものです。第一に、オーナー経営者の裁量で処遇が決まってきた企業では、制度ではなく「社長との関係」で労働条件が形成されており、文書化されていません。第二に、労務管理の専任担当者が置かれておらず、労働関連法令の頻繁な改正に追随できていないケースが多数あります。第三に、従業員が経営者に直接不満を言いづらい環境では、権利の主張が抑制されているだけで、権利そのものが消滅しているわけではありません。

そして重要なのは、M&Aそのものが「権利主張のきっかけ」になるという点です。オーナー経営者への個人的な信頼や恩義から我慢していた従業員も、経営者が交代し、資本の親会社が変わった途端に、心理的なブレーキが外れます。「あの社長には言えなかったが、新しい親会社になら言える」という力学が働くのです。つまり買い手にとっての労務リスクとは、単に「潜在債務が存在する」ことではなく、「M&Aという出来事が潜在債務を顕在化させる引き金になる」という点にあります。この理解がないと、DDでリスクを把握したうえで「これまで請求されてこなかったのだから大丈夫だろう」と誤った楽観をしてしまいます。

注意点
M&A後に従業員から未払残業代を請求されたとしても、「前オーナーの時代のことだから」という理由で買い手が支払いを免れることはできません。株式譲渡であれば会社の債務はそのまま存続し、合併や会社分割でも承継の対象となります。過去の労務問題は、買い手が引き受ける経済的負担として、必ず取引条件の検討に織り込む必要があります。

2. 未払残業代—最も大きく最も見えにくい簿外債務

固定残業代(みなし残業)が無効になる3つの落とし穴

中小企業のM&Aで最も高額な簿外債務を生むのが、固定残業代(みなし残業手当、定額残業代)の設計・運用の不備です。固定残業代そのものは適法な制度ですが、有効と認められるためには実務上おおむね3つの要件を満たす必要があります。

  • 基本給などの通常の労働時間の賃金部分と、割増賃金にあたる部分とが判別できること(明確区分性)。
  • 当該手当が時間外労働の対価として支払われているという性質を有すること(対価性)。
  • 固定残業代が想定する時間数を超えて労働した場合に、その超過分の差額を精算していること。

問題は、この3要件のどれかが崩れると、固定残業代が「割増賃金の支払い」として認められなくなるだけでなく、支払済みの固定残業代が「通常の労働時間の賃金」に組み込まれるという点にあります。たとえば「営業手当5万円は月40時間分の残業代を含む」と就業規則に定めていながら、雇用契約書には時間数の記載がなく、実際には50時間働いても差額を払っていない、というケースを考えてみてください。この場合、営業手当5万円は残業代の支払いとして認められないうえに、割増賃金を計算する際の基礎賃金に加算されます。結果として、割増単価そのものが上昇し、その上昇した単価で全時間外労働分を計算し直すという、二重の意味で不利な計算になるのです。中小企業のDDで数千万円規模の潜在債務が算出される典型パターンがこれです。

「課長以上は残業代なし」——管理監督者性の否認リスク

労働基準法41条2号の「監督若しくは管理の地位にある者」(管理監督者)に該当する労働者には、労働時間・休憩・休日に関する規定が適用されず、時間外労働および休日労働の割増賃金の支払義務がありません。この規定を根拠に「課長職以上は管理職なので残業代は支給しない」という運用をしている中小企業は非常に多く見られます。しかし、裁判例上、管理監督者性は肩書ではなく実態で判断され、その判断要素はおおむね次の4点に整理されます。すなわち、経営方針の決定に参画するなど職務内容が経営者と一体的であること、労務管理について指揮命令権限を有すること、出退勤について厳格な規制を受けず自己の裁量で労働時間を管理できること、そして地位にふさわしい賃金上の処遇を受けていることです。

中小企業でとくに引っかかりやすいのが、3点目の労働時間の裁量と、4点目の処遇です。タイムカードで管理され遅刻早退の控除を受けている課長は、労働時間の裁量があるとは評価されません。また、役職手当を支給していても、その額が部下の残業代を下回っているようでは「地位にふさわしい処遇」とは言えず、管理監督者性は否定されがちです。管理監督者性が否認された場合、その役職者について過去にさかのぼって全時間外労働分の割増賃金が発生します。管理職層は賃金水準が高いため割増単価も高く、人数が少なくても金額のインパクトは大きくなります。なお、管理監督者であっても深夜割増賃金の支払義務は免除されないため、深夜勤務が常態化している業種ではこの点も確認が必要です。

労働時間の把握不備は会社に不利に働く

「タイムカードを設置していないので、労働時間の記録がない」——DDの現場でこの回答が返ってくると、買い手側の専門家はむしろ警戒を強めます。記録がないことは会社にとって有利ではなく、不利に働くからです。使用者には労働時間を適正に把握する責務があり、記録が存在しない場合、労働者側が提出する手帳のメモ、業務用パソコンのログオン・ログオフ記録、業務メールの送信時刻、入退館記録、さらには家族の証言といった間接証拠によって労働時間が推計され、それが認定される可能性があります。使用者が「そんなに働いていない」と反証しようにも、反証すべき客観的記録を自ら持っていないという状況に陥るのです。

自己申告制を採用している場合も注意が必要です。申告された時間と、パソコンのログや入退館記録との間に大きな乖離があるとき、その乖離は「申告を控えるよう促す圧力が存在した」ことの証左とみなされかねません。DDにおいては、勤怠記録そのものだけでなく、勤怠記録と客観的データを突き合わせ、乖離の有無と幅を確認することが実務上の要点になります。とくに、毎月の残業時間が36協定の上限や固定残業代の想定時間ちょうどで頭打ちになっている、いわゆる「天井張り付き」の分布が見られる場合は、申告が抑制されている可能性を強く疑うべきです。

割増賃金の算定基礎の誤り——手当は名称ではなく実質で判断される

割増賃金の単価を計算する際、月給額から除外できる賃金は、労働基準法および同法施行規則により限定的に列挙されています。具体的には、①家族手当、②通勤手当、③別居手当、④子女教育手当、⑤住宅手当、⑥臨時に支払われた賃金、⑦1か月を超える期間ごとに支払われる賃金、の7種類のみです。これ以外の手当、たとえば役職手当、資格手当、精皆勤手当、営業手当、調整手当などはすべて算定基礎に含めなければなりません。

さらに実務上の落とし穴となるのが、「除外できる7種類に該当するかどうかは、手当の名称ではなく実質で判断される」という原則です。たとえば住宅手当は、住宅に要する費用に応じて算定されるものでなければ除外賃金と認められません。賃貸住宅の従業員に2万円、持ち家の従業員に3万円というように住宅の形態に応じて一律支給しているものは、費用に応じた算定とはいえず除外できません。家族手当も同様で、扶養家族の有無や人数にかかわらず一律に支給しているものは、扶養家族の状況に応じた手当とはいえず、算定基礎から除外できないのです。テレワーク手当を実費弁償として除外している企業も見られますが、日額数百円・月額数千円という一律定額での支給であれば実費弁償とは評価しづらく、算定基礎への算入が必要になる可能性があります。

こうした算定基礎の誤りは、全従業員に一律に影響するため、1人あたりの金額が小さくても総額は大きく膨らみます。DDにおいては、賃金規程に定められた全手当を一覧化し、それぞれについて除外の可否を検証する作業が欠かせません。

注意点
業務委託契約や請負契約で人材を使っている場合、その実態が「労働者」と評価されれば、契約の形式にかかわらず労働基準法が適用されます。指揮監督下で働き、勤務時間や場所が指定され、報酬が時間に対して支払われているような場合は労働者性が認められやすく、割増賃金と社会保険料がまとめて発生します。IT・建設・運送・美容などの業種では実務上とくに確認が必要な論点です。

未払残業代をはじめとする労務コンプライアンスの確認は、法務デューデリジェンス全体のなかでも重要な位置を占めます。買い手が押さえるべき法務上の留意点は以下の記事で詳しく解説していますので、あわせてご覧ください。
M&Aで買い手が押さえるべき法務の留意点|中小企業の買収で見落としやすい論点を解説

3. 未払残業代はいくらになるのか——買い手が最初にやるべき概算試算

試算の基本式と遡及期間

未払残業代のリスクは、「ある/なさそう」という定性的な把握では価格交渉の材料になりません。買い手として必要なのは金額です。概算試算の基本式は極めてシンプルで、「対象人数 × 1人あたり月額未払額 × 遡及月数」で求めます。

遡及月数の上限を決めるのが、賃金請求権の消滅時効です。2020年4月1日施行の改正労働基準法により、賃金請求権の消滅時効期間は2年から3年に延長されました。あわせて、賃金台帳などの記録の保存期間も3年に、労働基準法114条の付加金を請求できる期間も3年に延長されました。詳細は厚生労働省労働基準局「改正労働基準法等に関するQ&A」(https://www.mhlw.go.jp/content/000617980.pdf )に整理されています。したがって、実務上の試算では遡及月数を36か月として計算するのが標準です。なお、裁判所が付加金の支払いを命じる場合、未払額と同一額までの付加金が上乗せされ得るため、最悪シナリオでは理論値が倍増する点も念頭に置いておく必要があります。

もう一点、区別しておくべき論点があります。退職手当(退職金)の請求権は、この経過措置の対象外であり、消滅時効は従前どおり5年です。したがって、未払残業代は遡及3年、未払退職金は遡及5年と、時効期間が異なります。両者をまとめて同じ遡及月数で試算すると、退職金部分を過小評価することになるため、簿外債務の一覧を作る際は必ず分けて計算してください。

従業員50名・100名規模での金額シミュレーション

具体的な数値を入れてみると、リスクの規模感がつかめます。以下は、月額未払額の水準ごとに理論上の最大額を示したものです。実際には全従業員に同一の未払いが発生しているわけではないため、この金額がそのまま請求されるわけではありませんが、DDに費用をかける価値があるかどうかの判断材料にはなります。

従業員数1人あたり月額未払額遡及36か月での理論値付加金を考慮した最悪値
20名2万円1,440万円2,880万円
50名3万円5,400万円1億800万円
100名3万円1億800万円2億1,600万円
100名5万円1億8,000万円3億6,000万円

従業員50名、月額3万円という決して極端ではない前提で5,400万円という数字が出てきます。EBITDAが5,000万円の会社をEBITDA倍率5倍で評価し、事業価値2億5,000万円で買収しようとしているとき、この潜在債務は事業価値の2割強に相当します。人事労務デューデリジェンスの費用が数十万円から200万円程度であることを考えれば、費用対効果は明白です。

サンプル抽出による効率的な定量化の手順

とはいえ、全従業員について3年分の労働時間と賃金を一人ずつ検証するのは、時間的にもコスト的にも現実的ではありません。実務では次の手順でサンプル抽出による定量化を行います。

まず、従業員を職種・部署・雇用形態・役職といった属性でグループ分けし、労働実態が似ている集団を特定します。次に、各グループから数名ずつサンプルを抽出し、直近12か月程度について賃金台帳と勤怠記録、およびパソコンのログなどの客観的データを突き合わせ、1人あたりの月額未払額を実額で算出します。そのうえで、グループごとの人数を乗じて月間の未払総額を求め、遡及月数を掛けて総額を推計します。この方法であれば、限られたDD期間でも一定の精度をもって金額を示すことができ、「根拠のある減額要求」として売り手に提示できます。

サンプル抽出にあたっては、リスクが高いと想定される集団を優先的に選ぶことが重要です。具体的には、固定残業代の適用者、管理監督者として扱われている役職者、みなし労働時間制(事業場外みなし・裁量労働制)の適用者、そして残業時間が突出して多い部署の従業員です。逆に、実態として残業がほとんど発生していない部署に工数を割く必要はありません。

ポイント
試算結果は「1人あたり月額◯万円 × ◯名 × 36か月=◯◯万円」という形で、算定根拠とともに一覧化しておくことが交渉上の要点です。総額だけを提示すると「その数字の根拠は何か」という反論を招きますが、サンプルごとの実額計算表を添えて示せば、売り手も反論しづらく、価格調整の合意に至りやすくなります。

試算した未払残業代を買収価格にどう反映させるかは、正常収益力や簿外債務の見極めと一体で考える必要があります。買い手が押さえるべき財務・税務の留意点もあわせてご覧ください。
M&Aで買い手が押さえるべき財務・税務の留意点|DDから価格交渉までの実務

4. 賞与・退職金債務と社会保険の未加入

退職金規程はあるのに引当がない——要支給額をBSに戻して評価する

退職金制度をめぐる典型的な問題は、退職金規程が存在し支給義務が生じているにもかかわらず、貸借対照表に退職給付引当金が計上されていないというものです。中小企業では税務上の損金算入が認められないことなどを理由に引当計上をしていないケースが多く、その場合、退職金債務は完全な簿外債務となります。

買い手として確認すべきは、「仮に現時点で全従業員が自己都合により退職した場合に支給すべき退職金の総額(自己都合要支給額)」です。この金額を算出し、貸借対照表に負債として戻したうえで純資産を評価し直すのが実務上の標準的な取扱いです。中小企業退職金共済(中退共)や特定退職金共済に加入している場合は、共済からの支給見込額と規程上の支給額との差額が会社負担分となるため、加入状況と掛金水準を必ず確認します。また、確定給付企業年金(DB)を導入している場合は、年金資産の積立状況と数理債務との差額、すなわち積立不足の有無が論点になります。

賞与の支給義務が労使慣行から認定されるケース

賞与については、就業規則の規定ぶりが決定的に重要です。「業績に応じて支給することがある」といった裁量的な規定であれば支給義務は生じにくい一方、「毎年6月および12月に、基本給の2か月分を支給する」といった確定的な規定になっていれば、業績にかかわらず支給義務が発生します。買い手としては、賃金規程・賞与規程の文言と、過去の支給実績を突き合わせて確認する必要があります。

さらに注意すべきなのが、規程に明記がなくても、長年にわたり同水準の賞与を支給し続けてきた事実が「労使慣行」として労働契約の内容になっていると評価される可能性です。買収後に業績を理由として賞与を減額または不支給とした場合、労働条件の不利益変更として争われるリスクがあります。DDでは、直近5年程度の賞与支給実績(支給月・支給率・対象者)を時系列で確認し、実質的な固定費として事業計画に織り込むべきかどうかを判断します。

社会保険の未加入・標準報酬月額の過少申告と遡及徴収

社会保険(健康保険・厚生年金保険)および労働保険(労災保険・雇用保険)の加入漏れも、頻出する簿外債務です。とくに、本来は加入義務があるパートタイム労働者を加入させていない、あるいは「本人の希望により加入させていない」というケースが見られますが、社会保険の加入は本人の希望で選択できるものではありません。年金事務所の調査により未加入が判明した場合、原則としてさかのぼって加入手続を行い、保険料を納付することになります。健康保険料・厚生年金保険料の徴収権の消滅時効は2年であるため、最大2年分の保険料が事業主負担分・従業員負担分をあわせて請求され得ます。従業員負担分を本人から回収できないケースも多く、実質的には全額が会社負担となる場面も想定しておく必要があります。

標準報酬月額の過少申告も同様のリスクです。実際の報酬額よりも低い等級で算定基礎届を提出していた場合、遡及して訂正され、差額保険料が徴収されます。DDでは、賃金台帳上の支給総額と、算定基礎届・被保険者資格取得届の記載内容が整合しているかを突き合わせて確認します。

年次有給休暇・労災の未報告・ハラスメント紛争

このほか、金額としては小さくとも顕在化しやすい論点がいくつかあります。年次有給休暇については、年10日以上付与される労働者に対して年5日を確実に取得させる義務があり、これに違反していれば労働基準監督署の是正勧告の対象になります。買収後に年休の取得を促進すれば、その分の人員手当や外注費が発生するため、PMIコストとして見込んでおく必要があります。未消化の年休残高が大量に積み上がっている場合、退職時の一括取得によって引継ぎ期間が確保できないという実務上の支障も生じます。

労災については、労災事故が発生していながら労働者死傷病報告を提出していない、いわゆる労災隠しがないかを確認します。労災隠しは刑事罰の対象となるうえ、被災者から安全配慮義務違反による損害賠償を請求されるリスクを伴います。ハラスメントについても、係属中の紛争だけでなく、社内相談窓口への相談履歴や退職者の退職理由を確認し、潜在的な紛争の火種を把握しておくことが望まれます。M&Aを契機として、それまで表面化していなかった不満が一斉に噴出することは珍しくありません。

注意点
36協定を締結・届出しないまま時間外労働をさせている、あるいは締結していても上限規制を超過しているケースは、法令違反であると同時に、行政指導等のリスクを伴います。とくに建設業・運送業務・医師については2024年4月から時間外労働の上限規制の適用猶予が終了しており、これらの業種を対象とする買収では、上限規制への対応状況が事業継続性そのものに関わる論点になります。

5. 人事制度の未整備は「隠れたPMIコスト」

就業規則の3つの不備——存在しない・未届出・未周知

就業規則については、3つの段階で不備が生じます。第一に、そもそも作成されていないケース。常時10人以上の労働者を使用する事業場には作成・届出義務がありますが、10人未満の事業場では義務がないため、成長途上の企業では未整備のまま規模が拡大していることがあります。第二に、作成はされているが労働基準監督署に届け出ていないケース。第三に、作成・届出はされているが、従業員に周知されていないケースです。

このうち買い手にとって最も影響が大きいのが、第三の周知の欠如です。就業規則は、その内容を労働者に周知させる手続がとられていて初めて効力を持つと解されています。周知されていない就業規則は労働契約の内容とならないため、そこに定めた懲戒規定に基づく懲戒処分も、退職金の減額規定も、休職制度も、すべて根拠を失いかねません。つまり、買収後に問題社員への対応が必要になっても、懲戒処分という手段が使えない状態からのスタートになるのです。DDでは、就業規則が事業場ごとに備え付けられているか、イントラネット等でいつでも閲覧できる状態にあるか、直近の改定について従業員代表の意見聴取が行われているかまで確認します。

あわせて、実際の運用と規程の内容が乖離していないかも重要な確認事項です。急成長した企業では、規程に書かれていない社内ルールがいつの間にか運用されていたり、法改正に規程が追随していなかったりすることがよくあります。この乖離は、買収後にどちらを正とするかという判断を迫られる形で、必ず問題化します。

等級・賃金・評価制度の不在が統合の基準点を奪う

オーナー経営者の裁量で処遇が決まってきた企業では、等級制度も賃金テーブルも人事評価制度も存在しないことが珍しくありません。「なぜこの社員の給与がこの金額なのか」を、社長以外の誰も説明できない状態です。この状態は、買い手にとって二重の意味で困難をもたらします。

第一に、買い手グループの人事制度に接続しようにも、対応関係を作るための基準点が存在しません。等級がないため、どの社員を自社のどの等級に格付けすべきかを判断できず、格付けの根拠を本人に説明することもできないのです。第二に、オーナーが退任した後、処遇決定の権限と論理が失われます。これまで社長の一存で決まっていた昇給や賞与配分を、新しい経営体制でどのような基準で決めるのか。この問いに答えを用意しないまま最初の賃金改定期を迎えると、従業員の不信感が一気に高まります。

したがって、人事制度が未整備の企業を買収する場合は、「制度を作る」こと自体がPMIの必須タスクとして発生します。等級・賃金・評価の基本設計だけでも、外部専門家を使えば追加コストと半年から1年程度の期間が必要です。これをPMI予算として最初から見込んでおくかどうかで、統合の進み方は大きく変わります。

労働条件の不利益変更は一方的にはできない

買い手が自社の制度に統合しようとするとき、必ずぶつかるのが労働条件の不利益変更の壁です。労働契約法上、労働者と使用者は合意により労働条件を変更することができる一方、使用者が就業規則の変更によって労働者の不利益に労働条件を変更することは、原則として認められていません。例外として、変更後の就業規則を周知させ、かつ変更内容が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の事情に照らして合理的である場合に限り、変更が有効となります。

個別の同意を得るという方法もありますが、こちらもハードルは低くありません。判例上、賃金や退職金に関する不利益変更への同意については、同意の有無を形式的な署名の存在だけで判断せず、変更により労働者にもたらされる不利益の内容および程度、労働者が同意に至った経緯およびその態様、同意に先立つ情報提供・説明の内容等に照らして、労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するかどうかという観点から判断すべきものとされています。つまり、十分な説明をせずに同意書に署名させただけでは、同意の効力が否定されるリスクがあるのです。

実務では、こうした制約を踏まえ、買収直後に労働条件を切り下げるのではなく、調整給(差額補填手当)を設けて既存水準を維持しつつ、数年かけて段階的に統合していく方法が選ばれます。この移行期間中に発生する調整給は、明確な追加コストとして事業計画に織り込む必要があります。

適正化コストは「正常収益力(EBITDA)」の調整項目として織り込む

ここが買い手として最も重要な視点です。未払残業代を適正に支払い、社会保険に未加入だった従業員を加入させ、年次有給休暇を計画的に取得させるようになると、人件費は確実に上昇します。不備の程度によっては、人件費が数%から10%超まで増加することもあります。

問題は、この増加分が一過性の債務ではないという点です。過去分の未払残業代は一回限りの支出ですが、これから先の残業代を適正に払い続けることによるコスト増は、毎期の損益計算書に乗り続けます。したがって、これは「簿外債務」として純資産から控除するのではなく、「正常収益力(正常化EBITDA)」を算定する際の調整項目として、将来の収益力そのものを引き下げる形で反映しなければなりません。ここを見落とすと、実力より高い収益力を前提とした事業計画を立ててしまい、買収価格が過大になります。

同様に、オーナーの親族で実質的に稼働していない役員・従業員への報酬、私的な社宅・車両・交際費なども、正常収益力の調整対象です。これらは買収後に整理すれば利益が改善する「プラスの調整項目」である一方、労務適正化コストは利益を押し下げる「マイナスの調整項目」であり、両者をあわせて実力ベースの収益力を見極める作業が必要になります。

ポイント
労務適正化コストを算定するときは、「残業代の適正支払いによる増加額」「社会保険の適用拡大による事業主負担の増加額」「年休取得促進に伴う代替人員コスト」「人事制度構築の外部委託費用」「調整給の総額と支給期間」の5項目に分けて見積もると、事業計画に落とし込みやすくなります。とくに調整給は支給期間の設計次第で総額が数倍変わるため、統合スケジュールとセットで検討することが要点です。

6. 従業員のリテンションと退職リスク

キーパーソン依存度をどう測るか

事業価値が特定の個人に紐づいている場合、その人物の退職は買収の前提を根本から崩します。まず必要なのは、依存度を可視化することです。具体的には、売上高のうち何パーセントが特定個人の顧客関係に依存しているか、技術やノウハウが形式知化・標準化されているか、それとも属人的な暗黙知にとどまっているか、主要な仕入先・外注先との関係が誰によって維持されているか、といった観点で棚卸しを行います。

とくに見落とされやすいのが、オーナー経営者への個人的な忠誠によって在籍している「番頭格」の存在です。この層はオーナーの退任と同時に去る可能性が高く、しかも組織の実務を掌握しているため、抜けた場合の影響は役員の退任以上に大きいことがあります。マネジメントインタビューでは、経営陣だけでなく、部門長クラスや現場のリーダーにも接触し、それぞれの意向と価値観を確認しておくことが望まれます。あわせて、直近3年程度の離職率を年齢層別・部署別に分析することも有効です。中間管理職層の離職率が高い場合、マネジメントに構造的な問題がある可能性を示唆します。

情報開示のタイミング設計——早すぎても遅すぎても離職を招く

M&Aの情報が漏れた瞬間から、従業員の動揺と離職の検討が始まります。したがって、原則としてクロージング直前に一斉開示するのが基本形です。中途半端な段階で情報が広がると、確定していない情報が憶測を呼び、優秀な人材ほど早く動きます。

一方で、キーパーソンの残留意向を確認しないままクロージングを迎えるのは、買い手にとって極めて危険です。ここにトレードオフがあります。実務では、売り手オーナーと協議のうえ、事業継続に不可欠な数名に限って基本合意の前後に個別に接触し、秘密保持の誓約を得たうえで意向を確認する、という設計をとることがあります。誰に、いつ、どこまで伝えるかは案件ごとに設計すべき事項であり、標準的な正解はありません。買い手・売り手・アドバイザーの三者で開示計画(コミュニケーションプラン)を文書化し、想定問答まで準備しておくことが実務上の要点です。

リテンションボーナス・キーマン条項・競業避止の設計

キーパーソンの残留を確保する手段は、契約面とインセンティブ面の両方から設計します。

インセンティブ面では、リテンションボーナス(残留手当)が代表的です。クロージングから一定期間(一般的には1年から3年)在籍することを条件に支給するもので、一括ではなく分割支給とし、各支給時点での在籍を条件とすることで、期間全体にわたるつなぎ止め効果を持たせます。原資を買い手が負担するのか、譲渡対価から売り手が拠出するのかは交渉事項です。

契約面では、株式譲渡契約におけるキーマン条項が有効です。主要な従業員が退職した場合をクロージングの前提条件の不充足事由とする、あるいはアーンアウト(追加対価)の支払条件と連動させる設計が考えられます。加えて、売り手オーナーについては、一定期間の残留義務(ロックアップ、顧問・取締役としての在籍)と、競業避止義務および従業員勧誘禁止義務を明記することが標準的です。オーナーが退任後に同業で起業し、元部下を引き抜くという事態は、実際に起きています。

従業員説明会で「言うべきこと」と「言ってはいけないこと」

クロージング時の従業員説明会は、リテンションの成否を左右する最重要イベントです。従業員が最も不安に思っているのは、雇用が維持されるのか、労働条件が下がらないか、上司や職場が変わるのか、という3点に集約されます。したがって、説明の中心はこの3点への回答であるべきです。「雇用は維持します」「当面、労働条件は変更しません」という明言が、最も強い安心材料になります。

逆に避けるべきは、シナジーや成長戦略といった買い手側の論理を前面に出すことです。従業員にとっては自分の生活の話が先であり、会社の戦略の話は後です。また、決まっていないことを「検討中です」と曖昧に答え続けるのも危険で、不確実性が長く続くほど離職リスクは高まります。労働条件の見直しを予定しているのであれば、いつまでに何を決めるのかというスケジュールだけでも示すほうが、無期限の不安よりはるかに健全です。加えて、買い手の経営トップが自ら出席し、自分の言葉で語ることが、どんな資料よりも効果を持ちます。

ポイント
説明会の後は、企業の実態によりケースバイケースですが、1対1の面談を短期間で全員に実施することが一般的には推奨されます。集団の場では誰も本音を言いませんが、個別面談では不安や不満が具体的に出てきます。ここで拾った声が、その後のPMI施策の優先順位を決める最も確度の高い情報源になります。面談は買い手の役職者と、可能であれば旧経営陣の信頼できる幹部の二者で分担すると、率直な話を引き出しやすくなります。

従業員が抱く不安の中身や、情報開示のタイミングによって離職率が変わる実態については、M&A後に従業員がどうなるかを整理した記事でも詳しく解説しています。
M&Aで従業員はどうなる?雇用・待遇への影響と経営者が取るべき対応を徹底解説

7. 有資格者の退職が許認可を止める——業種別・人的要件の落とし穴

「人がいなくなると事業が止まる」業種の構造

人材流出リスクのなかでも、質的に異なる深刻さを持つのが、許認可の人的要件に関わる有資格者の退職です。多くの業法は、事業を営むための要件として、一定の資格を有する者を一定数配置することを求めています。この要件を満たさなくなると、単に業務効率が落ちるという話ではなく、許認可の維持そのものが危うくなり、最悪の場合は事業を継続できません。買収した事業が止まるのですから、これは労務リスクの中で最も回復困難な類型といえます。

しかも、こうした人的要件は財務諸表にも契約書にも現れません。有資格者が高齢である、あるいは要件をぎりぎりの人数で満たしている、という事実は、DDで意識的に確認しない限り把握できないのです。

業種別・人的要件の一覧と確認すべきポイント

主な業種における人的要件は次のとおりです。買収対象がこれらの業種に該当する場合、要件充足に必要な人数、実際の配置人数、有資格者の年齢・在籍年数・処遇を必ず確認してください。

業種主な人的要件確認すべきポイント
建設業営業所ごとの専任技術者、工事現場ごとの主任技術者・監理技術者経営業務の管理責任者の要件も含め、オーナー個人が要件を担っていないか
宅地建物取引業事務所ごとに従業者5名に1名以上の専任の宅地建物取引士常勤性・専任性が実態として満たされているか
マンション管理業事務所ごとに管理組合30組合に1名以上の管理業務主任者受託組合数の増加に対して有資格者数が追随しているか
調剤薬局管理薬剤師の常駐、処方箋枚数に応じた薬剤師の配置管理薬剤師の残留意向、地域の薬剤師採用難易度
介護事業管理者・サービス提供責任者・有資格職員の人員配置基準常勤換算での基準充足状況、加算要件の維持可否
労働者派遣事業・有料職業紹介事業派遣元責任者・職業紹介責任者責任者講習の受講状況と後任の育成
電気工事業・解体工事業主任電気工事士、技術管理者資格者が一人しかいない体制になっていないか

これらの業種では、「有資格者が1名しかおらず、その1名が高齢のオーナーの親族である」といった構造がしばしば見られます。この場合、クロージング後にその人物が退職すれば、直ちに要件欠格となります。

DD段階で資格者の年齢・在籍年数・処遇まで見る

確認すべきは資格者の人数だけではありません。年齢構成を見て今後5年以内の定年退職者を洗い出し、在籍年数から定着性を推し量り、処遇水準が同業他社と比べて見劣りしていないかを検証します。処遇が低ければ、買収を機に転職を検討する誘因が高まるからです。

そのうえで、要件をぎりぎりで満たしている場合には、リテンション施策の優先対象として明確に位置づけます。具体的には、有資格者に対する資格手当の引き上げ、複数名体制への増員計画、および買い手グループ内からの有資格者の配置転換による補充可能性の検討です。買い手が同業種で複数拠点を持っている場合、グループ内で有資格者を融通できることが、この種のリスクに対する最も強力な打ち手になります。逆に、異業種からの参入で買い手側に有資格者がいない場合は、要件充足の脆弱性がディールキラー(取引の成立を阻む重大な障害)になり得ることを、早い段階で認識しておくべきです。

注意点
許認可の人的要件を満たさなくなった場合、届出義務違反や業務停止処分に発展する可能性があります。株式譲渡であれば許認可は原則としてそのまま維持されますが、人的要件は別問題です。また、事業譲渡や会社分割の場合は許認可自体を取り直す必要がある業種も多く、その際にあらためて人的要件を満たす必要が生じます。スキームの選択と人的要件はセットで検討してください。

有資格者の在籍が許認可の維持要件となる業種の具体例として、建設業許可の承継と技術者確保を扱った施工管理会社のM&A記事もあわせてご覧ください。
施工管理会社のM&A留意点|許認可承継からPMIまで実務目線で徹底解説

8. M&Aスキーム別に見た人事・労務上の留意点

株式譲渡——簿外債務もそのまま引き継ぐ

株式譲渡では、会社そのものは存続し、株主が交代するだけです。労働契約の当事者である会社に変更はないため、従業員の労働契約は何ら影響を受けず、労働条件も雇用も自動的に維持されます。手続的な負担が最も軽いスキームです。

その裏返しとして、これまで述べてきた未払残業代、社会保険料の遡及徴収、退職給付債務、係属中の労働紛争といった簿外債務・偶発債務も、そのまま買い手が引き継ぎます。切り離すことができないのが株式譲渡の特徴です。したがって、株式譲渡を選択する場合には、DDによる債務の洗い出しと、価格調整・表明保証・特別補償といった契約上の手当が、他のどのスキームよりも重要になります。

事業譲渡——承継には個別同意が必要、来てほしい人ほど来ない

事業譲渡は、譲渡対象を個別に特定して移転するスキームであり、労働契約についても包括的な承継は生じません。従業員を承継するには、譲渡会社との労働契約を合意解約し、譲受会社と新たに労働契約を締結する必要があり、そのためには従業員一人ひとりの個別の同意が不可欠です。

買い手にとってのメリットは、承継対象を選別でき、不要な債務を切り離せる点にあります。一方でデメリットは明確で、来てほしい人材ほど転籍を拒否する可能性がある、という点です。優秀な従業員には他の選択肢があるため、条件が現状より劣後すれば転籍しません。結果として、事業は取得できたが、それを動かす人がいないという事態が起こり得ます。したがって、事業譲渡を選ぶ場合には、承継対象者への提示条件を現状以上に設計するか、少なくとも同等に維持することが実務上の要請となります。なお、厚生労働省は事業譲渡または合併を行うにあたって会社等が留意すべき事項に関する指針を定めており、労働者の理解と協力を得る手続について整理されています(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouseisaku/saihen/index.html )。

会社分割——労働契約承継法の手続を欠くと承継が否定される

会社分割では、分割契約または分割計画の定めに従って権利義務が包括的に承継されるため、労働契約も個別同意なく承継されます。ただし、労働者に与える影響が大きいことから、会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律(労働契約承継法)により、特別の手続が定められています。

具体的には、労働者および労働組合に対して労働契約の承継に関する事項等を通知すること(2条)、承継される事業に主として従事しているにもかかわらず承継の対象から外された労働者と、主として従事していないにもかかわらず承継の対象とされた労働者の双方に異議申出の機会を設けること(4条・5条)、そして分割にあたって労働者の理解と協力を得るよう努めること(7条)が求められます。異議申出の機会が双方向に用意されている点は見落とされやすく、「承継させたい人だけを分割契約に書けばよい」という発想は通用しません。

実務上とりわけ重要なのが、平成12年商法等改正法附則5条に基づく個別協議、いわゆる5条協議です。これは労働契約承継法の本体ではなく、同法制定時に商法等改正法の附則へ置かれた手続ですが、判例上、この協議が全く行われなかった場合や、協議が行われても著しく不十分であった場合には、当該労働者は労働契約の承継の効力を争うことができるとされています。つまり、手続の瑕疵によって承継そのものが否定される可能性があるということです。買い手としては、売り手が5条協議と7条措置を適切に履践したことを、議事録等の証憑で確認することがクロージング前の必須作業になります。手続の詳細は、厚生労働省「会社分割・事業譲渡・合併における労働者保護のための手続に関するQ&A」(https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12600000-Seisakutoukatsukan/0000146978.pdf )に整理されています。

合併——労働条件の統一問題が即座に顕在化する

合併では、消滅会社の権利義務が包括的に存続会社に承継され、労働契約もそのまま引き継がれます。個別同意は不要で、手続的にはシンプルです。しかし、法人格が一つになる結果、同一企業内に出自の異なる複数の労働条件が並存することになり、労働条件の統一という課題が直ちに顕在化します。

同じ会社の同じ職場で、同じ仕事をしている社員の給与体系や退職金制度が異なるという状態は、長く続けば必ず不満の温床になります。かといって、前述のとおり不利益変更には厳格な制約があるため、低いほうに合わせることは容易ではありません。実務的には、高いほうに合わせるコストと、調整給を用いて段階的に統一するコストを比較検討し、統合スケジュールを設計することになります。合併を選択する場合は、この統一コストを買収価格の検討段階から織り込んでおく必要があります。

スキーム労働契約の承継従業員の同意簿外債務の切離し主な留意点
株式譲渡影響なし(会社が存続)不要不可労務簿外債務もそのまま承継。DDと契約条項での手当が必須
事業譲渡個別に移転必要(一人ずつ)可能承継してほしい人材が転籍を拒否するリスク。許認可の再取得
会社分割包括承継(分割契約の定めによる)不要(承継法の手続が必要)一部可能通知・異議申出・個別協議の手続。協議を欠くと承継の効力が争われる
合併包括承継不要不可労働条件の並存と統一コスト。制度統合が即座に課題化

スキームごとに雇用契約や労働条件の引き継ぎ方がどう変わるのかは、従業員への影響という観点から整理した以下の記事でも詳しく解説しています。
会社売却で従業員はどうなる?雇用・待遇への影響を実務目線で解説

9. 人事労務デューデリジェンスで請求すべき資料と着眼点

開示請求資料のチェックリスト

人事労務DDの精度は、開示請求の網羅性でほぼ決まります。最低限、以下の資料を請求してください。

  • 就業規則、給与規程(賃金規程)、退職金規程、育児介護休業規程その他の諸規程一式(改定履歴を含む)
  • 就業規則の労働基準監督署への届出控えおよび従業員代表の意見書
  • 36協定その他の労使協定(変形労働時間制、みなし労働時間制、賃金控除、年休の計画的付与等)とその届出控え
  • 直近3年分の賃金台帳(個人別・月別)
  • 直近3年分の勤怠記録(タイムカード、勤怠システムの出力データ)
  • パソコンのログオン・ログオフ記録、入退館記録など客観的な労働時間データ
  • 労働者名簿、組織図、雇用形態別の人員一覧(年齢・勤続年数・役職を含む)
  • 雇用契約書・労働条件通知書の雛形および実際の締結済みサンプル
  • 業務委託契約書の雛形および契約者一覧
  • 社会保険の被保険者資格取得届、算定基礎届、月額変更届、および労働保険の年度更新申告書
  • 退職金の要支給額計算資料、中退共等の加入状況、確定給付企業年金の財政計算書類
  • 労働組合の有無、労働協約、労使協議の議事録
  • 労働基準監督署・年金事務所からの是正勧告・指導票の履歴とその対応記録
  • 過去3年の労働紛争(訴訟・労働審判・あっせん・団体交渉)の一覧と現況
  • ハラスメント相談窓口への相談記録、懲戒処分の履歴
  • 休職者・長期欠勤者の一覧と復職の見込み
  • 直近3年の入退社者一覧と退職理由

資料と実態のズレをどう突き止めるか

資料が揃っても、それを額面どおりに読むだけでは意味がありません。人事・労務DDの本質は、書面上の制度と現場の運用実態とのズレを突き止めることにあります。

有効なのは、複数の資料を突き合わせるクロスチェックです。勤怠記録とパソコンのログを比較すれば、申告されていない労働時間が見えます。賃金台帳と算定基礎届を比較すれば、標準報酬月額の過少申告が見えます。就業規則の退職金規程と貸借対照表を比較すれば、引当不足が見えます。組織図と労働者名簿を比較すれば、実在しない従業員や、稼働していない親族従業員が見えます。単独の資料からは何も出てこなくても、突き合わせれば矛盾が浮かび上がるのです。

そのうえで、マネジメントインタビューと現場視察を組み合わせます。実際に事業所を訪問し、始業前に何人が出社しているか、終業後に誰が残っているか、休憩時間に電話番が置かれていないかといった点を観察するだけでも、書面からは得られない情報が得られます。

社労士・弁護士・会計士の役割分担とDD費用の目安

人事労務DDは、単独の専門家で完結する調査ではありません。労働時間の実態把握と割増賃金の再計算、社会保険の適用判定については社会保険労務士が中心となり、固定残業代の有効性や管理監督者性、不利益変更の可否といった法的評価、および表明保証条項・補償条項への落とし込みは弁護士が担います。そして、算出された潜在債務を企業価値評価と正常収益力の調整にどう反映するかは、公認会計士・税理士の領域です。

費用の目安としては、人事デューデリジェンス単体で40万円から200万円程度が一つの相場観とされています。ただし対象会社の規模、事業所数、調査の深度によって大きく変動し、通常は財務DD・法務DD・税務DDと同時に実施されるため、DD全体では数百万円規模になることも珍しくありません。ここで費用を惜しんだ結果、数千万円の簿外債務を見落とすのであれば、明らかに本末転倒です。

ポイント
DDの初期段階で「この案件で最も金額インパクトが大きい論点はどれか」を仮説として立て、そこに工数を集中させることが実務上の要点です。全項目を均等に調べると、限られた期間で結論が出ません。労働集約型の業種であれば未払残業代、有資格者に依存する業種であれば人的要件、高齢化した組織であれば退職給付債務というように、業種と組織構成から仮説を立ててからDDに入ってください。

労務以外の分野も含め、デューデリジェンスで求められる資料の全体像を把握しておきたい方は、M&Aの必要書類を分野別に整理した記事もあわせてご覧ください。
M&Aの必要書類を完全解説|プロセス別・スキーム別の一覧と書類準備チェックリスト

10. 発見した労務リスクを価格・契約・実行にどう落とし込むか

ステップ1:金額が固まるものは価格調整で処理する

DDで洗い出したリスクは、性質に応じて3つの方法で処理します。第一が、譲渡価格からの減額です。

サンプル抽出により金額が相応の精度で算出でき、かつ発生の蓋然性が高いものは、価格調整が最もシンプルで確実な処理方法です。未払残業代の推計額、社会保険料の遡及分、退職給付債務の未計上額などがこれにあたります。ここで重要なのは、算定根拠を明示して交渉のテーブルに載せることです。「労務リスクがあるので1億円下げてほしい」では交渉になりませんが、「サンプル10名の実額計算に基づき、対象群◯名について月額◯万円の未払いが認められ、遡及36か月で総額◯◯万円と算出される」と示せば、売り手も検証可能な議論に応じざるを得ません。人事労務DDの成果物は、そのまま価格交渉の武器になるのです。

ステップ2:不確実なものは特別補償条項で担保する

第二が、契約条項による手当です。発生するかどうかが不確実なもの、あるいは金額の見積もりに幅が大きいものは、価格に織り込むと売り手が納得しません。こうしたリスクは、株式譲渡契約における表明保証と補償の枠組みで処理します。

一般的な表明保証違反の補償には、少額免責(一定額以下は請求しない)や補償上限、請求期間の制限が設けられます。しかし、DDで具体的に把握したリスクについては、これらの制限の対象外とする「特別補償条項」を設けるのが実務上の要諦です。「本DDにおいて指摘された未払割増賃金に関して第三者から請求を受けた場合、売主は免責額および上限額にかかわらず、また請求期間の制限なく、買主に生じた損害を補償する」といった規定を置くイメージです。

さらに、補償請求が現実に回収できるかという問題があります。売り手が個人株主で、譲渡対価を受領後に資力が失われた場合、補償条項があっても絵に描いた餅になりかねません。そこで、譲渡対価の一部を一定期間エスクロー口座に留保し、補償請求の原資として確保する方法が用いられます。留保額と留保期間は、想定される潜在債務の金額と時効期間を踏まえて設計します。

ステップ3:是正が必須のものはクロージング前提条件にする

第三が、クロージング前の是正です。放置したまま買収すると法令違反状態を引き継ぐことになるもの、あるいは是正なしには許認可の維持ができないものは、金銭で処理するのではなく、クロージングの前提条件(CP:Conditions Precedent)として売り手に実施させます。

具体例としては、36協定の締結・届出、就業規則の作成および労働基準監督署への届出と従業員への周知、社会保険の未加入者の資格取得手続、労働者死傷病報告の未提出分の提出、労働基準監督署からの是正勧告への対応完了などです。これらは売り手にとっても実施可能な範囲の作業であり、かつ実施しなければ買い手が違法状態を承継することになるため、前提条件として合意しやすい項目でもあります。

処理方法対象とするリスク具体的な手段設計上の要点
①価格調整金額が算定でき、発生の蓋然性が高いもの譲渡価格からの減額、純資産調整算定根拠を一覧化し検証可能な形で提示する
②契約条項発生が不確実、または金額に幅があるもの特別補償条項、エスクロー、表明保証保険一般の免責額・上限・請求期間の対象外とする
③前提条件是正しなければ違法状態を承継するものクロージング前提条件(CP)として売り手に実施させる実施完了の証憑を提出させ、確認方法まで合意する

是正の着手時期が過去分の請求を誘発するという逆説

最後に、実務上きわめて重要でありながら見落とされがちな論点に触れておきます。それは、労務の是正に着手すること自体が、過去分の請求を誘発しうるという逆説です。

たとえば、クロージング後に買い手側の主導で残業代の適正支払いを始めたとします。従業員から見れば、「これまで払われていなかったものが、急に払われるようになった」という事実が突きつけられることになります。ここから、「では過去の分はどうなるのか」という疑問が生まれるのは自然な流れです。労働組合が結成される、あるいは退職者が労働審判を申し立てるといった展開は、実際に起きています。是正は法的に正しい行為ですが、その実行方法を誤ると、休眠していたリスクを自ら起こしてしまうのです。

したがって、是正の設計は「何を、いつから、どの範囲で、どう説明するか」までをセットで検討し、クロージング前に弁護士および社会保険労務士を交えて方針を固めておくべきです。過去分について一定の解決金を支払って清算する道を選ぶのか、時効を前提に将来分のみを是正するのか、その場合に従業員へどう説明するのか。この判断は、買収スキーム、対象会社の労使関係、従業員の権利意識の水準によって変わります。少なくとも、「クロージング後に人事部が良かれと思って始める」という形だけは避けなければなりません。

注意点
買収後の労務適正化は、実施すること自体は避けられません。問題は順序と説明です。事前に方針が固まっていない状態で現場が個別対応を始めると、部署ごとに扱いが異なるという新たな不公平が生まれ、かえって紛争の火種になります。是正方針は経営レベルで一本化し、統一的なメッセージとともに実行してください。

11. 100%買収でなければ労務リスクは避けられるのか——資本業務提携との比較

出資比率と労務リスクの遮断度は比例しない

「労務リスクが大きいなら、100%取得ではなく少数出資にとどめればよいのではないか」——これは合理的な発想ですが、慎重な検討が必要です。

まず整理すべきは、出資比率と経済的リスクの関係です。少数出資であれば、対象会社に未払残業代が顕在化しても、その損失は持分割合に応じて株式価値の下落として跳ね返るにとどまり、買い手が直接支払義務を負うわけではありません。この意味では、リスクは限定されます。一方で、少数出資では対象会社の労務管理を是正させる権限も限定的です。取締役を派遣していても、支配権がなければ改善のスピードはコントロールできません。つまり、リスクの遮断とガバナンスの獲得はトレードオフの関係にあります。

見落とせないのが、業務提携によって実質的に労務リスクを引き受けてしまう可能性です。たとえば、提携先の従業員を自社の指揮命令下で働かせるような運用をすれば、偽装請負や労働者供給事業に該当するおそれがあります。また、提携先の従業員に対して自社が実質的な使用者として振る舞っていると評価されれば、労働紛争の当事者になるリスクも生じます。資本関係が薄いからといって、労務面のリスクが自動的に遮断されるわけではないのです。

業務提携・少数出資から段階的に進めるという選択肢

とはいえ、労務リスクの評価が定まらない段階で100%取得に踏み切るよりも、まず業務提携で協業の実効性を検証し、次にマイノリティ出資で関係を強め、最終的にマジョリティ取得あるいは完全子会社化に進むという段階的アプローチは、有力な選択肢です。この過程で、対象会社の労務実態を時間をかけて把握でき、是正の進捗を確認したうえで最終判断を下せます。

段階的アプローチを採用する場合の設計上の要点は3つあります。第一に、初期段階の契約において、将来の追加取得に関する優先交渉権やコール・オプションを確保しておくこと。第二に、追加取得時の価格算定式をあらかじめ定め、そこに労務簿外債務の控除方法を組み込んでおくこと。第三に、提携期間中に労務の是正を進めることを、業務提携契約上の努力義務あるいは追加取得の条件として明記しておくことです。

このアプローチは、労務リスクだけでなく、事業シナジーの実在性やカルチャーの適合性を検証する期間としても機能します。買収後に「思っていたのと違った」となる最大の要因は、実は財務でも法務でもなく、組織と人の相性であることが多いためです。

ポイント
段階的アプローチは万能ではありません。競合他社に先に買収されるリスク、売り手側が完全売却を望んでいる場合の交渉不成立、少数株主として塩漬けになるリスクなど、相応のデメリットもあります。対象会社のオーナーの意向、業界の再編スピード、自社のガバナンス体制を踏まえて、どの入り方が最適かをアドバイザーと検討することをおすすめします。

100%買収と資本業務提携では、負うリスクの範囲も経営への関与度も大きく異なります。両者の違いを経営権・コスト・リスクの観点から比較した記事もあわせてご覧ください。
資本業務提携とM&Aの違いとは?経営権・コスト・リスクを徹底比較

12. クロージング後100日の人事PMI実行計画

Day1〜30日:不安を鎮め、事実を確定させる

中小企業庁は、M&A後の統合作業について「中小PMIガイドライン」を策定し、譲受側が取り組むべきPMIの内容を整理しています(https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/pmi_guideline.pdf )。同ガイドラインや関連する実践ツールは中小企業庁のウェブサイト(https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/sme_pmi_guideline_course.html )で公開されています。ここでは、人事労務に絞った100日間の実行計画を示します。

最初の30日で最優先すべきは、従業員の不安を鎮めることです。クロージング当日の説明会で雇用と労働条件の維持を明言し、その週のうちに全従業員との個別面談を開始します。同時に、就業規則・賃金規程・労使協定の現物を確認し、実際の運用との差異を洗い出します。社会保険や労働保険の手続、代表者変更に伴う各種届出も、この期間に確実に完了させます。ここで手続にミスがあると、従業員やその家族の生活に直接影響するため、信頼を損なう原因になります。

やってはいけないのは、この時期に制度変更や人事異動を行うことです。買い手にとっては合理的な改善であっても、従業員には「買収されたから変えられた」としか映りません。最初の30日は、変えるための期間ではなく、聞くための期間だと位置づけてください。

31〜100日:現状把握と是正の優先順位づけ

30日を過ぎたら、DDで把握した論点の裏取りに入ります。DDは限られた資料と期間のなかで行われるため、実態と異なる部分が必ずあります。現場に入って初めて分かる運用、DD時には開示されなかった問題も出てきます。この段階で、労務リスクの全体像を確定させます。

そのうえで、是正すべき事項に優先順位をつけます。判断基準は、①法令違反状態にあるか、②放置した場合の金額インパクトの大きさ、③是正の難易度と所要期間、の3点です。36協定の未締結のように法令違反かつ是正が容易なものは即座に着手し、賃金制度の設計のように時間を要するものは中期の計画に載せます。第10章で述べたとおり、未払残業代の是正については、方針を経営レベルで確定させてから統一的に実行することが重要です。

また、この期間にキーパーソンとの関係構築を集中的に行います。個別面談で聞いた不満のうち、すぐに対応できるものを実際に改善して見せることが、最も効果的な信頼構築の方法です。「言っても変わらない」という諦めを「言えば変わる」に転換できるかどうかが、その後の統合の成否を分けます。

100日以降:制度統合のロードマップを引く

100日を過ぎたら、中長期の制度統合に着手します。等級制度・賃金制度・評価制度の設計、退職金制度の取扱い、福利厚生の統一といったテーマです。ここで重要なのは、いつまでに何をどう変えるのかというロードマップを従業員に示すことです。不確実性が長く続くことこそが最大のストレス要因であり、たとえ変更内容が完全には歓迎されなくても、スケジュールが明示されていれば人は落ち着きます。

制度統合の実行にあたっては、不利益変更の制約を踏まえ、調整給による激変緩和と段階的移行を基本設計とします。移行期間は業種や賃金差の大きさによりますが、3年から5年程度を見込むのが一般的です。この間の調整給の総額は、買収時点で事業計画に織り込んでおくべきコストです。

期間主なアクション目的
Day1〜7従業員説明会、雇用・労働条件の維持を明言、キーパーソンへの個別説明動揺の最小化
Day1〜30全従業員との個別面談、社会保険・労働保険の手続完了、諸規程の実物確認信頼の確保と事実の把握
Day31〜60DD論点の裏取り、労務リスクの全体像確定、是正方針の経営レベルでの決定対処範囲の確定
Day61〜100法令違反状態の即時是正(36協定・就業規則・社会保険)、即応可能な不満の改善違法状態の解消と信頼構築
100日以降等級・賃金・評価制度の設計、退職金・福利厚生の統合、調整給による段階的移行制度統合の完了

ポイント
人事PMIの成否を測る指標として、クロージング後12か月の離職率を必ずモニタリングしてください。買収前の平常時の離職率と比較し、有意に上昇していれば統合施策のどこかに問題があります。とくに、勤続年数が長い層や中核人材の離職が増えている場合は、早急な原因分析と対応が必要です。

13. まとめ

M&Aにおける人事労務の留意点を、買い手の視点から整理してきました。要点は次の5つに集約されます。

  • 人事労務リスクは3層で捉える——金額に換算できる簿外債務、制度未整備によるPMIコスト、人材流出による事業価値毀損。層ごとに対処手段がまったく異なるため、まず仕分けることから始めます。
  • 未払残業代は必ず金額に換算する——固定残業代の設計不備、管理監督者性の否認、労働時間の把握不備、割増賃金の算定基礎の誤り。これらを「人数×月額未払額×36か月」で試算し、価格交渉の材料にします。
  • 制度未整備は将来コストとして収益力に反映する——労務適正化に伴う人件費増は一過性の債務ではなく、正常収益力(EBITDA)の調整項目です。ここを見落とすと買収価格が過大になります。
  • 人材流出、とくに有資格者の離職は事業を止める——許認可の人的要件に関わる業種では、キーパーソンの退職が事業継続そのものを揺るがします。DD段階で資格者の年齢・在籍年数・処遇まで確認してください。
  • 発見したリスクは価格・契約・前提条件の3層で処理する——金額が固まるものは価格調整、不確実なものは特別補償とエスクロー、是正必須のものはクロージング前提条件。そして是正の着手時期は、過去分の請求を誘発しないよう慎重に設計します。

M&Aによる成長戦略において、人事労務は「後回しにしてよい領域」ではなく、買収価格そのものを左右し、買収後の事業価値を決定づける中核的な論点です。次のアクションとしては、検討中の案件について、対象会社の業種と従業員規模から想定される労務リスクの仮説を立て、DDのスコープに人事労務を明示的に組み込むところから始めることをおすすめします。

執筆者

弁護士 佐藤聖喜

京都大学経済学部在学中、旧司法試験合格。最高裁判所司法研修所を経て弁護士登録(日本弁護士連合会・東京弁護士会)。その後、京都大学経営管理大学院修了(MBA)。 長島大野常松法律事務所を経て独立し、千代田中央法律事務所を設立。独立行政法人中小企業基盤整備機構(中小機構)では国際化支援アドバイザーとしても活動。上場企業の組織再編、IPO法務DD、スタートアップの資本政策支援、再生型M&Aなど、法務・戦略両面からの総合支援に実績を持つ。